5アマデウス弦楽四重奏団の想い出

ブライニンより速く指が動くヴァイオリン奏者は少なくないかもしれないが、ブライニンより優れたヴァイオリン奏者はいない。
ケルン音大では、このような言い方をする学生がいた。また、プラハのコチアンSQも同様のことを僕に語った。
ブライニン氏の演奏を一度でも耳にすれば、誰もが同様の印象を持つかもしれない。
だが、アマデウスSQの魅力とは、それ以前の第一ヴァイオリン主導によるカルテットとは一線を画すものだった。
少なくとも彼らはそのように自負していた。
それは、シドロフ氏が逝去するまでの40年間、一人のメンバーも代わることなく活躍し続けたことでも明らかだが、シドロフ氏が亡くなってから10年程の歳月が過ぎた頃、ブライニン氏が語った次の言葉からもうかがえる。
「アマデウスSQとして活動していた頃、私は自分たちの演奏に満足していなかった。それは、常に上を目指していたからだ。だが、仲間のシドロフが突然亡くなり、私もまた(録音物などから)アマデウスSQを聴く立場になった。その時はじめて、私がどういう人たちと一緒に仕事をしていたかを理解した!」と。

アマデウスSQの三人(ブライニン、ニッセル、シドロフ)のユダヤ系ヴァイオリニストは、ドイツ・オーストリアからナチスの手を逃れてイギリスに渡った。
その後、マン島にあった世界一自由な収容所(ロヴェット氏は ghetto と言っていた)で出会ったと耳にしている。
戦争が終わった頃には、彼らは既に離れがたい友情で結ばれていた。
一方、ロンドン生まれのロヴェット氏は18歳で王立音大に入学したが、君を教えられる先生はここにはいないと、ロスタルから三人のヴァイオリニストを紹介された。
そのような経緯を経て、この弦楽四重奏団は誕生した。
因みにロヴェット氏が「スージー」と呼んでいた夫人もまた、ハンガリーから逃れてきたヴァイオリニストでロスタル門下だった。
彼らは練習期間を経て、ロンドンのウィグモア・ホールでデビューした後、40年間その栄光を保ち続けた。

アマデウスSQ最後の演奏会は、1987年のカーネギー・ホールだった。
その演奏会を終えて直ぐに彼らは夏のバカンスに入った。
そして、シドロフ氏が避暑地でのジョギングがもとで心臓の痛みを覚え、三日後に帰らぬ人となった。
シドロフ氏が逝去した後、アマデウスSQは解散した。
ある時、ロヴェット氏と一緒に珈琲を飲んでいると、ラジオから弦楽四重奏団の演奏が流れてきた。ロヴェット氏は耳を澄ませ「このヴィオラはシドロフではない!」と言って、僕の顔をみた。
シドロフ氏のいないアマデウスSQは存在しないのだと、強く思わせられた。