13アマデウス弦楽四重奏団の想い出

2000年4月29日、アマデウス弦楽四重奏団のチェリスト、マーティン・ロヴェット氏が逝去された。

ロヴェット氏とは、師弟を超えた付き合いをさせて頂いた。
僕を「Ryo⤴」と少し尻上がりに呼んだ彼の優しい声を聞くことは、もう出来ない。
ロヴェット氏は僕の顔を見ると、必ず「Spielen wir zusammen(一緒にやろうよ)」と声をかけて下さったが、それに対して僕は慎重だった。
それは、1983年1月の、彼との最初の演奏会で僕自身が、まだ学ばなければならないことが、如何に多いかと気付かされたからだ。
もちろんロヴェット氏は「für mich genügen(私には十分満足)」と言って下さったが、心から尊敬する音楽家の前で、自分自身で得心出来ないのが嫌だった。
彼らのような優れた室内楽奏者と一緒に演奏するのは、ある意味では、力量の伴わない奏者と演奏するより遥かに楽ではある。
誰かが言った言葉だが「塩分濃度の高い湖で泳ぐ」ようなもので、僕たちは既に浮かんでいる。
後は、手足を動かすように、音を出して音楽表現をするだけだ。ただ、そこで求められる音とは、単に良い音では済まなかった。
魂のこもった、命のある音楽的な音でなければならなかった。しかも音程は pitch ではなく intonation が求められた。
その後も、共演をするたびに思い知らされた。

2000年3月、「引退前の最後の録音を、君たちと遺したい」と、ピアニストの白澤暁子さんと一緒にロンドンに招かれた。ロヴェット夫妻は、白澤さんのピアノがお気に入りだった。

ロンドン・ハムステッドにあるロヴェット氏邸で練習を重ねたが、そこには歴史を感じさせる立派なスタインウェイ製グランドピアノがあった。聞けばベラ・バルトークがアメリカ亡命前まで愛用していたピアノということだった。
昼食はロヴェット夫人が、友人のご婦人と共にいつも腕を奮って下さった。
レコーディング当日も、ロヴェット氏の車で、夫人と僕たちの4人でスタジオに向かった。

ロヴェット夫人も優れたヴァイオリン奏者で、演奏に対して非常に厳しい方だったが、その彼女がモニタールームに陣取った。
アマデウスSQは、全員がストラディバリウスを使用していたが、この録音では、ガリアーノ(?)というイタリア製チェロを用いた。
それは、夫人のアドバイスもあってのことだが、僕もこのガリアーノは、ストラディバリウスとはまた一味違って、年齢を重ねたロヴェット氏の雰囲気に合っているように感じた。

レコーディングは驚くほどスムーズに進み、押さえていたスタジオが空いてしまった。
そこでロヴェット氏の提案により、急遽ブラームスのクラリネット・ソナタ、変ホ長調を収録することになり、ロヴェット氏がブージーからバイク便で楽譜を取り寄せた。
今度はロヴェット氏がモニタールームに陣取った。

第二楽章 allegro appassionato では、それまで静かに聴いていたロヴェット氏が、テンポ設定に意見を挟むようになった。そして、二度ほど指示通り試したが上手くいかなかった。
するとロヴェット氏は「Ryo、疾風怒濤だ!」と叫んだ。
その一言で、まるで魔法をかけられたように全てが解決し、一発で収録を終えた。

収録を終えたスタジオの隅で、「今日、ここで私は最後のレコーディングを終えた」とロヴェット氏は静かに呟いた。
それを耳にした僕たちは、何とも言えない気持ちになった。

帰りの車中では、僕の初めてのレッスンが話題になった。
「君の初めてのレッスンをよく覚えているが、私は何も言わなかった」と何度も言った。
それまでにも同様の事があり、その場合は決まって、何か特別に伝えようとするときだった。
だから僕は、「なぜ、何も言わなかったの?」と尋ねたところ、彼は「何も言えなかったからだ!」と語気を強めて答えた。
後ろの席では、ピアニストの白澤さんが黙って二人の会話を聞いていた。
ロヴェット氏からは多くのことを学んだ。だから、彼の記憶違いかもしれないとは思ったが、こういう場合には、大抵は静かに耳を貸し、後でゆっくりと考えるのがロヴェット氏との付き合い方の極意と心得ていたので、何もいわずに黙って聞いていたが、今となってはもうその話の続きを伺うことは出来ない。
その他にも彼は、どれだけ僕のクラリネットに満足しているかを語っていたが、それは僕の大切な想い出として、心の中にそっと仕舞っておく事にする。

その時の録音(CD)に関しても、タイトルを含めて「君の好きなようにしなさい。但し、私がどれだけ下手だったかは内緒にしろよ!」と、いつものように余裕たっぷりのユーモアで笑わせた。

残された人生で、あれほど音楽から満足を得ることは、もう二度とないだろう。

冥福を祈りたい。