12アマデウス弦楽四重奏団の想い出
絵画には補色というものがある。色相環の反対側にある色で、互いに引き立てあう関係にある。
ゴッホはこの補色を、よく理解していたらしい。
室内楽はこの補色のように、互いに引き立てあい、補い合うことの出来る者同士でなければ、決して一緒に演奏することは出来ない。
アマデウスSQが語る話は、浅く表面的に理解してはならないが、ロヴェット氏はある時から「Spielen wir zusammen (一緒にやろうよ)」と、顔を合わせる度に言うようになった。
ロヴェット氏が僕との演奏を楽しんだこと、そして、「常にコンタクトを保ち続けよう」といったことは、これまで公言しないようにしていた。それは、僕にとって大切な思い出であり、心にそっとしまっておくのが相応しいと思うからだ。しかし「私との事は、どのように語っても構わない」とのロヴェット氏の言葉を思い出し、今回は語ることにする。
1970年代後半になると、アマデウスSQはあるメンバーの健康上の問題から、それまでのように、一説には年間150回とも言われる活動は難しくなった。
ケルン音大での教育も加わり、彼らは必然的にカルテットの演奏回数を、大幅に抑えざるを得なくなっていた。
だが、レコーディングの他に、個々人が他のアーティストと共演する機会は、むしろ増えたようにも見受けられた。
シドロフ氏は〔ブルッフのクラリネットとヴィオラの二重協奏曲〕を、クリーブランド管弦楽団首席クラリネット(と、シドロフ氏は言った)ディヴィッド・グラッツァー氏や、イギリス室内管弦楽団首席クラリネットのシア・キング女史らと共演し、BBCで放送・放映された。
(イギリスで放送されたものを後日、シドロフ氏が聴かせてくれた)
ブライニン氏も室内オーケストラ等と、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲を弾いていた。
1982年のある日、シドロフ氏から「マーティン(ロヴェット氏)の頼みをよろしくお願いする」と言われたので、急いでロヴェット氏のもとに駆け付けた。
それは、かねてからの知り合いであるクラリネット奏者とピアニストから〔クラリネット、チェロ、ピアノによるトリオ演奏会〕のオファーがあり、練習に付き合って欲しいというものだった。
その二人は、とても高名な演奏家だった。
(プログラムは、ベートーヴェン〔街の歌〕、ブラームスのトリオ)
若造の僕に、こんなに丁寧に話を進める彼らに驚き、むしろ恐縮させられたが、それこそが、まさにアマデウスSQでもあった。
但し、アマデウスSQの話はシンプルだったが、決して表面的に浅く理解してはならなかった。
何故なら、彼らの観察力や洞察力は尋常ではなかったからだ。
そもそもロヴェット氏は初見で何でも弾けた。
また、レッスンではデュオなどを一緒に練習していたので、僕の力量など、とっくの昔にお見通しだと思っていたが、いざ練習が始まると「むしろ君と一緒に演奏会をやりたい」と彼は呟いた。
僕は「面白い冗談ですね?」と笑ったが、彼は「für mich genügen (私には十分満足)」と言った。
驚くことに、ロヴェット氏との演奏会は本当に実現した。
その演奏会当日、「ところで、あのアーティストたちとの演奏会はいつ?」とたずねたら「あぁ、あれは断った」と、ロヴェット氏は素っ気なく答えた。
ずっと後のこと。ロンドンで会ったロヴェット氏は、愛車のベントレーで迎えに来た。
日本と同じ keep left のロンドンを、どういう訳かしばしば右側の車線を走った。
どうやら前夜にベントレーを運転して、パリから英仏海峡トンネル経由で帰宅したばかりのよう。
1982年に、ロヴェット氏が断った、例の〔クラリネット、チェロ、ピアノのトリオ〕演奏会をパリで行ってきたようだった。
彼らの関係は何の問題もなく、その後も継続していたことを知り胸をなでおろした。
いや、むしろ彼らの人間性の大きさが判り嬉しかった。